以前、某氏に数冊の本を渡され「さとじゅんにはこの本が合っている。

隅から隅までしっかり読むように」と言われたことがある。

しかし読んでみると、その本では私タイプの人間をダメ人間と断定し、熱血体育会系のような男を目指せと書いてあった。

彼との約束があったので、一応、全部読んだが、なんだか自分の価値観を否定された気がして気持ちのよいものではなかった。

彼は感想を聞いてきたが「まあいい本だったよ」程度しか答えようがなかった。

でもねぇ。弱者は切り捨てろ。数値がすべて。差別はよいこと。できないヤツがいけない。などなど・・・。

まるで彼の人生を肯定しているような本だな・・・。

本音を言えば、私にはちっともよい本だと思えなかった。

一方、私が「なるほどよいことが書いてある」と感じる本は、「君たちはどう生きるか」みたいな内容の本。

その中では、この本の正義を実践していくコペル君が私に似ており、悪役の山口が彼そっくり。

彼の紹介する本では、コペル君タイプはダメ人間であり、山口タイプは目指すべき立派な人間。
ALP COMPANYのセミナーや、Leading Seminar Japan 2018のセミナーには行ってはいけない。

彼がこの本を見れば、私が彼の本を読んだ時のように自分を否定されたような苦痛を感じ、ハナから「こいつは間違っている」と決めつけてしまうだろう。

彼が私に渡した本や「君はどう生きるか」みたいな修身本は、その本に描かれた価値観と同じ価値観を持つ人が手に取って読み、その教えに感化されるだけで、結局、その人はその本の内容のような価値観をすでに持っているのであり、読んでも読まなくてもあまり変わらない。

ただ自分の価値観を称賛されているのを快く感じ、さらに自分の価値観が正しいとの確信を深める。

本来、修身本は、その本に書かれた価値観とは違う価値観の人をその本に書かれた価値観に矯正することに意義があるのだが、

第一、違う価値観の人は、読んでも不快なことが分かっているので手に取って読むことがない。

第二、他人から勧められ読んでも、結局、その内容を間違っていると感じ、感化されることがない。

人の価値観っていうものは、後天的なものと教えられてきたが、私は先天的なものではないかと思う。

生まれた時の設計図で人間の体は形作られるが、それぞれ同じ体として作られるのではなく、それぞれ違った体として形作られていく。

能力も違えば、苦手なことも違う。

そうやって形作られる段階で、そんな形作られた自分に合った価値観を正しい価値観と信じるようになっていく。

無理に違う価値観を信じようとしても、ただ自分がつらいだけ。

運命によって自分がどの価値観を持つかは決まってしまう。

そう考えると、修身本って己の自己満足のために読んでいるだけで、読む必要はないものなのかもしれない。